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「つつじが崎」の起源 |
現在のつつじが岡公園一帯を、室町時代の弘治(こうじ)2年(1556)に、すでにつつじが崎の名で呼んでいたことが伝えられています。この起こりは古代より、野生のヤマツツジが密生していた陸地(つつじが岡)が水中(城沼)に突き出ていた地形から名付けられたと考えられています。
今から1,200年余り前の奈良時代に、ヤマツツジはすでにアカツツジの名で呼ばれ、全国各地に広く自生していたことが知られています。従って、つつじが崎の名称はかなり以前から名付けられていたものと思われます。
第9代館林城主松平(榊原)忠次(さかきばらただつぐ)の母祥室院殿(しょうしついんでん)のことを書き残した古文書によれば、「…つつじの園と呼ばれる所あり、つつじの花盛りのころには、その景観が城沼に映って美しく、満開になると見物人が近村近郷から集まり観賞した…」ことが述べられています。
祥室院殿は、元和(げんな)9年(1623)に、亡くなりました。従って、つつじが崎の地名は長い間にわたって引き継がれ、この後も伝えられていったものと考えられます。 |
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躑躅ヶ崎・封内経界図誌 安政2年(1855)
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つつじが岡公園の伝説 |
江戸幕府下の第7代館林城主榊原康政(さかきばらやすまさ)の側室「お辻」は美しく、城主に愛されていたことから正室のねたみをかい、その責めに耐えきれず、城沼に身を投げ死を遂げました。時に慶長(けいちょう)10年(1605)のことと伝えられています。
里人はこれを悲しみ、その霊を弔うために、「お辻」「ツツジ」の音が互いに似かよっているところから、その名にちなんで、ツツジを城沼の南岸に植え、その後、次第に増殖して名園になったと語り継がれています |
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お辻・お松の墓(善長寺)
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歴代城主の移植と保護 |
古来から自生していたヤマツツジの古木に加え、寛永(かんえい)4年(1627)、第9代館林城主松平(榊原)忠次(さかきばらただつぐ)は、当時領内であった新田郡武蔵島村(現在の尾島町)から、新田義貞の妻(匂当の内侍)(こうとうのないし)遺愛のツツジを数百株移植し、更に寛文(かんぶん)年間(1661〜1672)には第12代城主徳川綱吉(つなよし)が、日光の山より数株のツツジを移植したと言われています。また、第22代城主秋元志朝(ゆきとも)は、園内の美観を添えるため、嘉永2年(1849)の春、領内の密蔵寺より白色10株、紫色1株のツツジを献木させました。
歴代城主もツツジの保護には相当な力を尽くしたものと思われます。その一つの証拠として、弘化3年(1846)に、前城主井上正春が、後任者の秋元志朝に引き継いだ当時の記録「館林藩史料」の中に、「躑躅株千八株長さ5尺(1.5m)より1丈(3m)まで」とあることから、城主交代の場合には、双方から役員を送り、ツツジ一本一本を数え、目録を添えて新城主に引き継いだものと思われます。これらのことから、歴代城主がいかにツツジの保護増殖に努めていたかが分かります。 |
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館林藩資料 |
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秋元家のきびしい取り締まり |
当時、一般の人々は、非常に公徳心を欠き、酔に乗じて枝を折ったり、花を持ち帰る者も少なくなかったと言います。そこで、このことを残念に思った秋元家では、これを取り締まる方法として、制札ぐらいでは何の効果もないことを知り、「一枝を折る者は一指を折る」と言い触らした結果、老人たちは、「花に手を触れるではないぞ、指が無くなってしまうから」と子供を戒めました。もしも誤って枝を折ると、父兄はその罪の及んでくることを恐れ、夜間になるのを待って、ひそかに来てツツジ1株を植えてこれを償ったと言います。
この取り締まりの方法は、枝を折ったり、花を持ち帰る悪い習慣が無くなったばかりか、ツツジの数を増すばかりで、まさに一石二鳥の妙案であったと言われています。 |
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つつじが岡公園は維新後、一時民間に払い下げられ荒廃しましたが、明治13年以降は歴代郡長と地元の協力により復興が進み、明治19年5月10日には、
皇后、皇 太后の御 行啓を仰 ぎました。 その後、 明治39年 から40年 にかけて 東方を拡張し、ここに安楽岡善平氏寄付の50株と他より購入したツツジ、また、園内密生箇所より移植したツツジなど百数十株を配植しました。
更に館林町有志杉本八代(やよ)氏は、大正4年5月、公園の枯損補植用として、ツツジ苗1,200株を当時全国で有名な東京大久保萬花園と他より求め、大正6年には、邑楽郡(おうらぐん)の山林中よりレンゲツツジ100株を採取して、いずれも公園に寄付しました。ここで特記すべきことは、萬花園より求めたツツジの中に、江戸時代の文化から天保にかけて、ツツジの名所大久保で生産されていた有名なキリシマツツジ(江戸で生産されていたので江戸キリシマツツジとも呼ぶ)の主要品種が含まれていたことです。現在これらのキリシマツツジは古木となって花期には見事な景観を呈しています。
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明治時代のつつじが岡
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大正時代のつつじが岡(絵はがきより)
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昭和時代 |
昭和になると古木ツツジの肥培管理も一層研究され るようになりました。また、
昭和2年1月に、館林町に花山保勝会が 設立され、公 園の保護や発展に大きな役割を果たしました。昭和5年2月には、西方に第2回の拡張事業が完成し、旧公園の密生箇所より651株のツツジを移植しました。
昭和8年5月、国の史蹟名勝天然記念物調査委員理学博士三好学氏が、来園して調べた結果、名勝地として、また、名木として十分指定の価値があると称賛し、翌昭和9年12月28日に「躑躅ヶ岡」の名称のもとに、国の名勝に指定されました。
昭和39年11月、皇太子明仁親王と御妃正田美智子さまとの御結婚を祝し、御妃美智子さまとゆかりの深い館林市から、皇居吹上御所の前庭に奉祝にふさわしい白琉球とキリシマツツジの紅白古木2株が献上されました。 |
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名勝指定地の景観
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平成になって |
| 平成2年4月より9月まで大阪において開かれた「国際花と緑の博覧会」には、世界53か国より6,507点の出品がありました。館林市からは、樹齢約450年の桔梗咲き霧島(キリシマツツジ系)古木2株を出品しました。この古木ツツジは、大きさ、咲かせた技術、優れた景観等の点から他に類が稀であると、最高の「名誉賞」に輝き、日本や世界の人々を驚かせました。 |
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「名誉賞」に輝く桔梗咲き霧島
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宇宙ツツジ誕生 |
| 館林市出身の宇宙飛行士向井千秋さんの乗ったスペースシャトル「コロンビア」が、日本時間の平成6年7月9日、米国のケネディ宇宙センターから打ち上げられました。この時、搭載された市の花ヤマツツジなどが、大きな夢を秘めて、順調に生育しています。 |
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