園芸ツツジの生い立ち
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 わが国で最初にツツジの品種を分類した園芸書「花壇網目」(かだんこうもく)は、延宝(えんぽう)9年(1681)、水野元勝により著わされました。その下巻「躑躅異名の事」の中に、西行(さいぎょう)、花車、駿河万(するがまん)よ、せいかいは、白万よなどツツジ類147品種の名が挙げられています。
 さらに元禄5年(1692)になると、わが国で初めてのツツジとサツキの専門書「錦繍枕」(きんしゅうまくら)が、江戸染井の植木屋として有名な伊藤伊兵衛により著わされました。この書はツツジの部3冊、サツキの部2冊からなり、花形を図示し、品種の形態や特徴などを解説したわが国のツツジ園芸種の基になっている貴重なもので、ツツジ類173品、サツキ類163品を記載しています。この中に書かれていてつつじが岡公園に植えられているツツジには、白琉球、峰の松風、花車、関寺、レンゲツツジ、白万葉、飛鳥川、西行などがあります。
 わが国でツツジを栽培し観賞した最初は、寛文(かんぶん)より延宝(えんぽう)のころと言われ、その後、元禄(げんろく)から享保(きょうほ)にかけては一層の流行を見たと伝えられています。また、天保(てんぽう)年間(1830〜1843)は、江戸大久保のツツジ全盛時代で、熱心に増殖し、小売商人が仕入れの本場として群集しました。この当時の重要な品種は本霧島で、次いで白万葉、紫万葉など50種ほどが栽培されていました。
明治になると、一時さびれた大久保のつつじ園も、明治16年に、大久保つつじ園が開設され、明治20年になると共同つつじ園、日の出園、萬花園、筑紫園、中村園、吉野園などが次々に開園し、最盛期には、花の種類70余種、株数は1万余株に及んだと言われています。しかし、明治35年ころからはしだいに廃(すた)れてしまいました。
 大久保のツツジは、その用途が庭樹に限られ、新しい種類のツツジを作り出すこともなかったので、大正3年ころには、大久保全体でツツジの種類がわずかに40余種しかなかったと言われています。江戸染井と大久保は、わが国における園芸ツツジの発祥の地として知られています。
 大正3年に刊行された「もみじ・つつじ・ざくろ栽培法」によると、近年大久保付近で輸出しているツツジとして、日の出霧島、初霧島、紅霧島、東絞り、曙琉球、白琉球、大紫、峰の松風、紅蓮華などが挙げられています。特に日の出霧島と白琉球は多数を占めていたことが述べられています。
 明治、大正、昭和にかけて、東京や埼玉県安行(あんぎょう)で出版された各種の種苗目録の中には、数多くの園芸ツツジの品種名を見ることができます。昭和10年以降は、戦争の状況下になり、ツツジの栽培は減少してしまいました。