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館林市第一資料館

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館林の歴史概要

更新日:2026年6月22日

館林の歴史概要

古代の館林

現在の群馬県の範囲は、古代には「毛野」と呼ばれる地域の一部だったが、六世紀前半頃に「上毛野」となり、律令制度による政治が成立した七世紀後半には「上毛野国」となった。やがて、大宝律令の制定(701年)により国郡制が確立すると「上野国」と表記されるようになった。国の政治・行政の拠点である国府は群馬郡(前橋市元総社町付近)に置かれ、国内には十四の郡(多胡郡は和銅4年〈711〉に新設)があったが、その東端の利根川と渡良瀬川に挟まれた東西に細長い地域が館林市を含む邑楽郡である。
ここは古くは「オオアラキ」と呼ばれていたが、和銅6年(713)に出された「諸国の郡・郷の名には好い字を付ける」「二字を用いる」の制度により、「邑楽」の表記が選ばれて広く使われるようになった。「オオアラキ」は「新たに開墾する」ことを強調した呼び名で、「邑楽」は「たくさんの人が集う楽土」を意味する。この一帯は河川に沿った低地と沼沢地が散在し、用排水の技術が未発達な古代においては水田作りが難しい場所であった。古くは古墳時代のヤマト王権による国土支配、新しくは律令制度による地方政治の体制つくりが進められる中で、実り豊かな土地とするための取組みが行われたに違いない。郡内の四つの郷の内の三つの名が、池田・八田・疋太(田)であるのにもそれが窺える。歴代の地域開発には、古墳を築造した有力者や邑楽郡家(郡役所)に勤務する官人、農民など多くの人びとや集団がかかわったであろう。
古代の邑楽郡の動きを示す史料は、僅かな数が知られるのみである。その中で注目されるのは、奈良時代の正史である『続日本紀』の宝亀2年(771)10月の条に載る、それまで広域行政区分の東山道に属していた武蔵国を東海道に移すとの記事である。その理由として武蔵国には東海道の駅路(幹線道路)も通っており、公の使者などの往来が頻繁で負担が大きいことをあげる。そして、東山道の駅路には上野国新田駅から邑楽郡家を通って国境の利根川を渡り、武蔵国府で東海道の駅路と繋がる分岐路があったことを記している。この記事と「古氷」の地名から、邑楽郡家は現在の大泉町仙石周辺に在ったと推定される。この分岐路を往来した様ざまな人と物を記録した史料が残っており、郡家の官人や郡内各地から徴発されてここで働いていた人びとは、こうした光景を目の当たりにしていたであろう。(『館林市史別巻館林歴史人物辞典』ほかより)
古代邑楽郡郷推定地

中世の館林

平安時代の終わり(12世紀)から、室町時代(15世紀)まで館林・邑楽地域の統治を主導したり、影響力を及ぼしたりしたのは佐貫氏の人びとである。平安時代の終わり、邑楽郡が一郡荘園化して佐貫荘が成立した。佐貫荘を現地で支配する武家領主となったのが佐貫氏である。武家領主としての佐貫氏の画期は、鎌倉幕府草創期に御家人となり、その権益を地頭職として安定化させた佐貫広綱の時である。その後佐貫氏は幕府内の政争に巻き込まれながらもよく命脈を保ち、室町時代の舞木氏まで続く。
鎌倉時代後半になると、北条得宗家(執権北条氏の嫡流家)が権力を独占していく。その過程で、北条氏を支える幕府の実務官僚が佐貫荘に進出し始めた。鎌倉幕府と北条氏が滅亡すると、北条氏とその周辺の権益は室町幕府の将軍となった足利氏とその家臣が継承していった。また、足利氏の本貫地である足利荘や簗田御厨に本拠をもつ足利氏家臣も佐貫荘に影響力をもった。
室町時代後半(15世紀後半)になると、社会は戦国時代の様相を呈してくる。その画期となったのが「関東の三十年戦争」と呼ばれる享徳の乱であるが、争乱を主導した鎌倉公方足利氏が古河に拠点を構えたことから、館林・邑楽地域は激戦地のひとつとなった。この頃になると、佐貫荘には佐貫氏の姿はほぼ見られなくなり、古河公方の家臣の赤井氏と冨岡氏が台頭し、それぞれ館林と小泉に本拠となる城郭を構えた。
戦国時代後半(16世紀後半)になると関東周辺から戦国大名が侵攻し、関東平野の中央で戦争を繰り返した。この戦争で赤井氏は上杉謙信に滅ぼされ、館林城には新たに長尾氏が入った。上杉氏が関東から撤退すると、長尾氏も北条氏に滅ぼされ、館林城は北条氏の城となった。戦国争乱の過程で佐貫荘は館林領・小泉領という二つの政治領域に再編され、それぞれの城主は家臣団を組織したり、周辺領主を同心として従属させたりすることで地域の武家領主の頂点に立った。(『館林市史別巻館林歴史人物辞典』ほかより)
戦国時代後期の渡良瀬川流域要図

近世の館林

現在の館林市域は、近世においては大部分が館林藩の領分であった。ただし、同じ館林藩といっても、藩主は頻繁に交替した。7家の大名が入れ替わり、17名の藩主が存在した。
一方、大部分が館林藩領分とはいえ、館林藩領分に属さなかった時期・村もあった。天和3年(1683)から宝永4年(1707)の間は、館林城が廃城となり、旧藩領は旗本領や幕府領に分割されていた。また、享保19年(1734)から元文5年(1740)までは、藩主太田資晴が大坂城代となったのにともない、館林城は城番支配となり、領分は幕府代官の預所とされた。(『館林市史別巻館林歴史人物辞典』ほかより)
近世館林藩主
江戸末の邑楽郡内町村

近代・現代の館林

近代は、一つのまとまった地域としての館林がつくられた時代である。明治4年(1871)の廃藩置県による館林藩の廃止の後、群馬県(第一次)、栃木県、と所管が変遷をするが、明治9年以後、館林地域は、群馬県に属することになった。その後、明治22年の町村制施行による8町村(館林町および郷谷・大島・赤羽・六郷・三野谷・多々良・渡瀬の各村)の成立と、アジア太平洋戦争後の昭和29年(1954)の八町村合併の、二度にわたる合併によって館林市が成立した。
この約150年の間、館林地域も大きな変化を遂げた。まず、日本全体の近代化にともない、資本主義発展による産業化の中で、モスリンや製粉などの新しい産業や銀行がつくられ、成長した。鉄道も開通し、舟運に代わって交通の主役となった。こうした中で館林は産業・交通の地域的中心として発展した。
他方では、足尾鉱山の排水などによる鉱毒の被害にたいして、館林をふくむ地域の農民たちによる鉱毒反対運動が大規模に広がった。また、相次ぐ戦争は館林の住民にも、兵士としての出兵、銃後の生活困難などをもたらした。
昭和20年の敗戦は、新たな変化をもたらした。日本国憲法による平和と民主主義の理念は一定の定着をみせ、戦後復興に次ぐ、高度成長による社会や生活の変化も著しい。館林での市の成立、都市化にともなう水道などの都市インフラの整備、工業団地の建設、自動車交通・輸送の発展に関わる高速道路(東北道)館林インターチェンジの設置などがなされた。館林は首都圏近郊の工業地帯として位置づけられるようになった。新たな農業の模索も進んでいる。つつじが岡公園や茂林寺などの観光地としても発展した。
一方、城沼や鶴生田川の水質汚染なども表面化し、それに対する環境問題への取り組みも必要となった。
市政では歴代市長による、「水緑都市」・「公園都市」・「共創都市」などが提唱され、計画的な都市づくりがすすんだ。現在、世界的なグローバル化の進行と新たな戦争の危機、温暖化や災害の多発など新しい変化への対応が必要となっている。
そうした中、令和元年(2019)5月、「里沼(SATO―NUMA)―「祈り」「実り」「守り」の沼が磨き上げた館林の沼文化」のストーリーが文化庁によって日本遺産に認定された。茂林寺沼・多々良沼・城沼など市域に点在する複数の沼と人びとが共生しながら現在までつないできた歴史・文化、暮らしや生業を「里沼」と表現し、館林特有の沼辺文化をストーリー化したものが評価されたのである。(『館林市史別巻館林歴史人物辞典』ほかより)
明治22年合併後の市域
昭和以降の市域変遷

館林の歴史年表

館林の歴史年表(『館林市史別巻館林歴史人物辞典』よい)