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公園の歴史

更新日:2024年4月12日

「つつじが崎」の起源

「つつじが崎」の起源の画像

現在のつつじが岡公園あたりは、古代より野生のヤマツツジが群生する地で、江戸時代中期の絵図などには既に「躑躅ヶ崎(つつじが崎)」の名で記載されています。

この名は、ヤマツツジの群生する陸地が隣接する城沼(じょうぬま)に突き出ていた地形から名付けられたと考えられます。

ヤマツツジは、奈良時代ごろには全国的に広く自生していたことが知られていますので、つつじが崎の名称もかなり以前から名付けられていたものと思われます。

つつじが岡の伝説

つつじが岡の伝説

つつじが岡公園の起源には一つ伝説が伝えられています。
かつて館林城主の妾「お辻」という人物がいました。お辻は容姿が美しく、城主の寵愛を一身に集めていたため、正室らより蔑まれ、ついには城沼に身を投げてしまいました。
里人はこれを悲しみ、その霊を弔うため「お辻」と「つつじ」の音が似ていることから、つつじを城沼の南岸に植えました。その後、次第に増殖が行われ名園になったと伝えられています。

歴代館林城主とつつじが岡移植と保護とお花見

歴代館林城主とつつじが岡

古来から自生していたヤマツツジに加え、歴代の館林城主は各地よりツツジを移植し園の拡張や整備を行いました。
主なもので、1627年(寛永4)松平(榊原)忠次(ただつぐ)は、当時領内だった新田郡武蔵島村(現在の群馬県太田市尾島町)から、新田義貞が妻、勾当之内侍(こうとうのないし)のために植えたと伝えられるツツジを数百株を移植しました。このツツジは「勾当之内侍遺愛のつつじ」と呼ばれ、今もなお園内で見ることができます。また、1661から1672年の寛文年間には、後に5代将軍となる、城主徳川綱吉が、日光の山より数十株を移植しています。ツツジの保護にも相当尽力していたと思われます。
城主の交代が行われる際には、双方から役人を送り、ツツジ1本1本を数え、目録を添えて新城主に引き継いでいた記録が残っているほどです。 そして城主らもつつじが岡でお花見を楽しんでいました。
1721年(享保6)に行われた松平清武の花見は家来から料理人まで、総勢153人にも及ぶ絢爛豪華なものだったそうです。

館林城主だけでなく、近隣の藩主らもお花見に訪れており、つつじが岡は江戸時代には既にお花見の名所として知られていました。

明治・大正時代

明治・大正時代

明治維新後、つつじが岡公園は一時民間に払い下げられ荒廃してしまいました。しかし明治13年、民情視察でつつじが岡を訪れた初代群馬県令、楫取素彦(かとりもとひこ)は荒廃したツツジ園の復興を決意します。以降、郡長や地元の努力もあって復興は進み、明治18年に復興開園式が行われました。そしてその翌年には皇后、皇太后の行啓を仰いでいます。

その後、明治39から40年にかけて園東方の拡張が行われ、百数十株を移植しています。また、大正4年、地元有志杉本八代氏がツツジの苗1,200株を公園に寄付しました。特筆すべきは、これが東京大久保の萬花園などから購入されたもので、江戸時代に大久保で生産されていた「江戸キリシマツツジ」の主要品種が多く含まれていたことです。これらは今では貴重な品種となっていますが、つつじが岡では今でも多く見ることができます。

昭和時代

昭和時代

昭和5年、園の西方に約1,000株を植栽し、新たなツツジ園として「新公園」を造成しました。それに伴い、元からあったツツジ園は「旧公園」と呼ばれています。そして昭和9年、旧公園の多数の古木、名木とその咲き誇る景観は「躑躅ヶ岡」の名称のもと、国の文化財、名勝に指定されました。つつじが岡公園は、名実ともに日本有数のツツジ園として認められたのです。戦時下には、花見の自粛を呼びかけたり、鍛錬の場として利用されることもありましたが、戦後は高度経済成長に合わせ、つつじが岡公園を訪れる観光客は年々増加していきました。

昭和後半にはツツジの開花期間約1カ月ほどで、40万人もの入園者が訪れ、園内はにぎわいました。

平成以降

平成以降

平成2年「国際花と緑の博覧会」に、当園から桔梗咲き霧島の古木2株を出品。世界53カ国6,507点の出品の中、大きさ、咲かせた技術、優れた景観等から、最高の「名誉賞」に輝いています。平成6年には、館林市出身の女性宇宙飛行士向井千秋さんがスペースシャトル「コロンビア」に乗った際、当園から採取したツツジの種子を持って行きました。その種子から育てた「宇宙つつじ」はその後も順調に成長し、園内で毎年花を咲かせています。

そして平成11年から14年にかけて、園内の在来種の中から、美しい花色や花形をもったツツジを、館林市オリジナル品種として登録を行い、8種類の新品種が誕生しています。