小栗上野介忠順と館林
更新日:2026年5月28日
小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)は、日本初の遣米使節として海を渡り、外国奉行・勘定奉行・町奉行・歩兵奉行・軍艦奉行・陸軍奉行を歴任し、司馬遼太郎に「明治の設計図を書いた男」と言わしめた人物です。
この小栗上野介忠順と館林の深い関わりについて紹介します。
小栗上野介忠順と館林の縁
明治元年(1868年)正月の鳥羽・伏見の戦いに敗れ、新政府に対し恭順するか、徹底抗戦するかで対立する幕府内で、忠順は徹底抗戦を主張した。
しかし、同年正月に役職を罷免され、知行所の群馬郡権田村(高崎市)に引きこもったのちも新政府に対抗する危険人物として目されていた。忠順が権田村の観音山に屋敷を建設する工事を始めると、東山道総督府はこれを不穏な行動として、忠順の逮捕を高崎藩に命じた。こうして逮捕された忠順は、同年閏4月6日に三ノ倉(高崎市)の河原で、家来4人とともに斬首に処された。さらに、総督府に出頭した忠順の養嗣子又一(忠道)も高崎で斬首された。
この処刑後に館林との関わりが生じる。
斬首された忠順父子の首級は、当時総督府の本営が置かれていた館林に送られたのである。館林城に在城していた総督 岩倉具定による首実検が済むと、首級は秋元家の位牌寺泰安寺に預けられたが、墓所を持たない泰安寺は法輪寺に埋葬を依頼し、法輪寺の墓所に埋められた。

権田村の村役人中島三左衛門は、忠順父子の遺体を一つにして葬り、供養することを期していた。首級が法輪寺に埋められたことを知り、忠順の旧知行所下野国足利郡高橋村(足利市)の名主人見惣兵衛を訪ね、首級の“盗掘”を企て、一度法輪寺の境内へ忍び込んだが、首級を掘り出すことができず失敗した。そこで、三左衛門と惣兵衛は、新当郷村(館林市)の渡辺忠七を訪れ、計画を打ち明けた。忠七は惣兵衛の伯父で、法輪寺住職明山とも面識があった。忠七ら3名は、忠順の墓碑を建てることを明山に願い出て、そのための測量ということで墓所内を調査した。
そして一周忌にあたる4月6日の夜、法輪寺に忍び込んだ三左衛門らは、今度は忠順父子の首級を掘り出すことに成功したのである。
権田村に持ち帰られた忠順の首級は、胴体が埋められていた同村東善寺の裏山に埋葬された。
この“盗掘”で忠七は捕らえられ、明山は100日の謹慎に処された。この時、取り調べにあたったのが館林藩士の塩谷良翰であるが、忠七の始末書には「4月6日の夜、何者の仕業か、墓を掘り起し小栗父子の首級が盗み取られました。そのことで、今日役所に呼び出されましたが、誠に驚いています。私は私用で町に出かけ、午後5時頃寺に上がったところ、住職より次第を聞きました」とあり、忠七は罪に問われなかった。
これは、“盗掘”に同情し、始末書をこのように書き改めさせた塩谷の取り計らいであったという。
注:「館林市史 通史編2−近世館林の歴史−」より抜粋
法輪寺に「小栗上野介忠順」の説明看板を新設
館林市では令和6年12月に「館林市文化財保存活用地域計画」(以下「地域計画」)を作成し、文化庁の認定を受けました。「地域計画」では、指定などに限らず地域に眠る歴史的な未指定文化財や物語を再発見し、地域に伝えることが重視されています。
今回、館林の知られざる歴史を広くPRするため、法輪寺(朝日町)のご厚意で説明看板の新設が実現しました。

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2027年大河ドラマ「逆賊の幕臣」
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