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館林市第二資料館

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田山花袋旧居

更新日:2026年6月22日

概要

館林市指定史跡(昭和46年5月1日指定)
田山花袋旧居の画像

田山花袋が7歳から14歳までおよそ8年間を過ごした家です。土間があり、縁側があり、年輪が浮き出るような板があり…。色合い、材質感、形、そのすべてに長い長い時間がしみこんでるようです。

木造平屋建て、玄関の土間に続いて三畳、左手に八畳二間、右手に四畳、裏に三畳の板間と土間の合わせて5つの部屋があります。

明治4年旧館林藩士の子として館林に生まれた花袋は、14歳で上京。やがて小説家をめざし、明治40年『蒲団』の発表により日本の自然主義文学を確立しました。
ふるさと館林と花袋のつながりは深く、とくにこの家は、花袋が館林の思い出を書き綴った作品『ふる郷』(明治32年刊)に”なつかしきこの家”と記されており、花袋にとって思い出多い家であったことがうかがわれます。

またこの建物は江戸時代の小規模な武家屋敷のひとつでもあります。昭和56年、市内城町14番37号よりこの地に解体移築されました。

田山花袋旧居と作品描写

田山花袋旧居

田山花袋旧居の建築情報はこちら(『館林市史特別編6館林の町並みと建造物』抜粋)

小説『ふる郷』(明治32年)の描写

この旧居は次のように描写されています。
「故郷を去りて後、われは幾度そのなつかしき一軒の茅葺屋根を夢にや見けん。あはれわが秋の黎明早く人に拾はれぬ前にとて、裏の栗の大樹の下に佇立みて、落ちたる実を拾ひ集めたるも此処、西の四畳半の離座敷に座りて雨の夜長く軒端の點滴の音を聞きつつ、昔の稗史小説に読み耽りたるも此処、慈愛ある母の死に瀕したる遺言を聞きて奮つて孤身都門に上りたるも、青年客気の同人相会して互に燃ゆるがことき若き心を語り合ひたるも、恋しき人を思ひたるも、烈しき空想に耽りたるも、皆々此処なり。故郷にてのわが紀年は、いつも此家に伴はぬはなく、故郷に於るわが追懐の情も、皆この家を思ひ出さぬ事とては無し。
なつかしきこの家!
(中略)

わがこの家は八畳、六畳、四畳半の三間にて、この他に農家のごとき台所を備へたり。
六畳は祖父君の居ます所にて、祖父君は終日長く机に向ひて、或は文を読み、或は字を習い、あるひは珠算を弾きたまへり。夏の日など午睡したまふ事をりをりあれど、そは極めて稀なりき。刀剣、書画を此上なく好みたまへば、床の間なる鹿の角の刀架には、金拵へなる家重代の備前長船範光の大小常に飾られ、床には文晁、応挙、探幽などと、三日と同じ軸をかけられたる事なかりき。われは十歳頃まで祖父君によくなつきて、その膝によりかかりて、いろいろと昔の面白き戦場の功名話などを聞きぬ。
次の八畳には、右の高き処に神棚ありて、其処には天照皇大神と共に、戦死したる父君の霊を祭れり。夕暮ごとに、母上のつとめの神灯の影美しく花さきて、幼き心にも父君は極楽とやら楽しき国に行きたまひしなるべしと思ひき。
四畳半の離座敷は、後にはわが書斎とはなりたれど、初めは父の遺物の書箱山の如く積み重ねられて、雨戸はいつも開かれたる事なかりき。
家の周囲には一反歩ほどの畑ありて、母上手つからそを耕し給ひぬ。維新前には琴をもかなでたまひし御手なるをと、昔より出入せし百姓の老婦、そを傷ましき事に云ひしを、われは久しき後まで忘れざりき。祖父君も暇ある時は、徒に午睡せんもやくなしとて、俵を腰につけて、至る処に尻餅つきつつ雑草を取りて母上を手伝ひたまひぬ。
西の隣境には、里芋いつもよく生立ちて、夕月の閃々とその広き葉の上の露に煌くを、われは常に美しと思ひき。玉蜀黍、茄子、麦など皆よく成熟せざるはなかりき。ことに荒地には薩摩芋よければと人より教へられて、裏の土手の一部を耕して、ある年そを試みしに、思ひしより出来よくて、母上と共に、歓喜しつつ、小児の頭ほどの大なるものを堀りし事を今も忘れず。

利活用

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