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館林市

指定文化財一覧

更新日:2024年3月6日

国指定文化財・名勝

躑躅ヶ岡(躑躅)

所在地

花山町3278

所有者・管理者

群馬県

指定年月日

昭和9年(1934)12月28日

躑躅ヶ岡
全国に類を見ないツツジの名園で、城沼の南岸に位置する。伝説によれば、17世紀初め、榊原康政(さかきばらやすまさ)が館林城主の時にこの地にツツジを植えられたのが起源といわれるが、それ以前の古文書等にも「躑躅ヶ崎」という地名が記録されており、古くから野生のツツジが自生していたものと考えられる。
江戸時代には歴代の城主により大名庭園として保護されてきた。明治維新後、民間払い下げなどによって一時荒廃したが、地域の人々の努力により整備が行われ、明治18年(1885)に復興開園を遂げた。
昭和9年(1934)に国の名勝に指定され、現在に至る。
園内には、樹齢800年を超えると伝わる樹高5mにもおよぶ古木をはじめ、約1万株のツツジが植えられている。特にヤマツツジ系、オオヤマツツジ系、キリシマツツジ系、リュウキュウ系のツツジには古木や巨樹が多い。城沼に映る満開のツツジの様は、見事な景観となっている。
ツツジの園芸品種研究上重要な公園として、またこの地域に残る大名庭園として、大変貴重である。

県指定文化財・重要文化財

館林城鐘

所在地

西本町2-50 応声寺

所有者・管理者

応声寺

指定年月日

昭和28年(1953)8月25日

館林城鐘
口径75センチメートル、胴の高さ106.5センチメートル、竜頭(りゅうず)を含めた高さ138.5センチメートル、肉厚7.7センチメートル、重さ540キログラムを測り、乳の配列は5乳5列、池の間には銘文のあとが残る。
寛文13年(1673)、館林藩主徳川綱吉が、城内をはじめ城下町へ時を知らせるために、下野天明(しもつけてんみょう)(現栃木県佐野市)の鋳物師(いもじ)・長谷川次郎左衛門藤原勝重に鋳造させ、城内に設置した鐘で、銘は儒者・林恕(しのぶ)(号は鵞峰(がほう)・春斎(しゅんさい))の撰(せん)。
天和3年(1683)、城主を継いだ綱吉の子・徳松が死去すると館林城は一時廃城となったが、応声寺(当時の長福寺)が館林城築城以来時報を担当していた縁故により、銘をつぶして下げ渡されたという。
現在、鐘には幅0.2ミリメートル、長さ40センチメートルの亀裂があるが、銘をつぶす時に生じ、その後に広がったものと伝えられている。
「城下町館林」を語る上で欠くことのできない文化財である。

不動まんだら板碑

所在地

台宿町7-11 五宝寺

所有者・管理者

五宝寺

指定年月日

昭和48年(1973)8月21日

不動まんだら板碑
高さ121センチメートル、幅43.5センチメートルを測る板碑(いたび)で頭部と基根部が欠損している。碑面は3段に区切られ、上段の郭線内には蓮台上に三弁宝珠(大部分欠損)を配した弥陀(みだ)(キリーク)を表す種子(しゅじ) が刻まれている。
中段は二重に囲まれ、中の線内には不動・降三世(ごうざんせい)・軍荼利(ぐんだり)・大威徳(だいいとく)・金剛夜叉(こんごうやしゃ)の五大尊が梵字(ぼんじ)で刻まれ、外の線内には、日天(にってん)・帝釈天(たいしゃくてん)・梵天(ぼんてん)・火天(かてん)・焔摩天(えんまてん)・月天(がってん)・羅刹天(らせつてん)・伊舎那天(いざなてん)・毘沙門天(びしゃもんてん)・地天(ちてん)・風天(ふうてん)・水天(すいてん)の十二天の種子を配した曼荼羅(まんだら)となっている。
下段の郭線内には、中央に「永仁五丁酉年三月」の文字、その両側には2基の五輪塔(ごりんとう)が刻まれている。
永仁5年(1297)に造立(ぞうりゅう)されたもので、本市の数少ない中世の資料として、貴重な文化財である。

板碑(いたび)…供養のために建立した塔婆の一種。鎌倉時代から室町時代にかけて多く造られた。
種子(しゅじ)と梵字(ぼんじ)… 「梵字」は古代インドの文字で、板碑などでは梵字1字をあてて一つの仏菩薩を表し、その1字が限りない仏の恩恵を受けるものと見ることから「種子」と呼んでいる。
曼荼羅(まんだら)…密教で宇宙の真理を表すために、仏や菩薩などを体系的に配列して図示したもの。
五輪塔(ごりんとう)… 元来は堂の落成、仏像開眼時の供養を目的の一つとして、鎌倉以後は先亡者の供養や墓石として造られるようになった。地・水・火・風・空の五大を表す五つの部分からなる。

青石地蔵板碑

所在地

西本町甲2440 愛宕神社

所有者・管理者

愛宕神社

指定年月日

昭和48年(1973)8月21日

青石地蔵板碑
高さ202センチメートル、基根部幅54センチメートル、頂部幅51センチメートル、厚さ7から9センチメートルの県内でも最大規模の板碑で、頂部が一部欠損している。
石材は、秩父地方産出の緑泥片岩(りょくでいへんがん)(青石)が使われ、碑の上半分には、左手に宝珠を持ち、右手に甘露の印を結ぶと思われる地蔵像(高さ99センチメートル)が彫られていることから「青石地蔵板碑」と呼ばれている。
下半分には、「右志者為過去慈父出離生死往生極楽成仏得也文永第十年癸酉二月日十三ヶ歳十二孝子敬白」と刻まれている。
文永10年(1273)2月、12人の子供たちが亡父の13回忌に造立(ぞうりゅう)したもので、この地域の中世の信仰の様子を知る上で、不動まんだら板碑同様、貴重な文化財である。
平成元年(1989)度に保存修理を行うとともに、愛宕神社の社殿北側に保存施設を設けて整備した。

甘露の印… 甘露は不死・天酒と訳される仏の教えのたとえ。印は仏や菩薩の悟りや誓いの内容を手と指の動きで表したもの。


旧上毛モスリン事務所附棟札

所在地

城町2-3 第二資料館

所有者・管理者

館林市

指定年月日

昭和53年(1978)10月13日

旧上毛モスリン事務所附棟札
上毛モスリン株式会社は、明治中頃に館林周辺の技術的伝統である機業(きぎょう)を生かして設立され、基幹産業の一つとして、明治以後の町の発展に大きな影響を与えた会社である。
この建物は、明治41年(1908)から同43年にかけて、館林城二の丸跡周辺に新工場を建設したときに建てられた事務所で、木造2階建の洋風の建造物である。
設計者・施行者ともに不明であるが、尺貫法を用いた入母屋造(いりもやづくり)で、小屋組(こやぐみ)はクィーンポストトラスを基本とした構造になっている。
外観はシンメトリー(左右対称)を基調とし、張り出しの浅い屋根、上下開閉式の窓、柱、階段の手すり、天井等に洋風の意匠が採り入れられ、この地域における洋風建築発達時の様子をよく示している。
明治維新後における城下町の近代化を示すものとして欠くことのできない文化財である。

棟札(むなふだ)…棟上(むねあ)げの時、工事の由緒、建築の年月、建築者の名前などを記して棟むな木ぎに打ちつける札のこと。
クィーンポストトラス… トラスとは、部材が三角形を単位とした構造骨組みの一つで、クィーンポストトラスは、山形トラスの中央付近に相対する垂直材を持つトラスのことをいう。

封内経界図誌

所在地

城町3-1 第一資料館

所有者・管理者

館林市

指定年月日

平成17年(2005)3月25日

封内経界図誌
全4冊、表紙に桐板を使った折本形式で、大きさは縦36.4センチメートル・横26センチメートル。
安政2年(1855)秋元志朝(あきもとゆきとも)が藩主の時の城付領内52ヶ村(邑楽郡43ヶ村、山田郡2ヶ村、新田郡1ヶ村、勢多郡6ヶ村)の村ごとの概況が絵地図と文章によって記されている。
絵図には方位が入り、家・道路・堀・沼・川・田畑・山林・並木等が色分けされている。また、村の概況の部分には、石高・田畑面積・年貢・家屋数・村役人・人口・寺社数・馬数のほか、助郷(すけごう)や出水時の対応、
城の堀ざらいや土塁(どるい)の草刈など、各村に割りあてられた義務が記録されている。
館林・邑楽地方がほぼ網羅されており、江戸時代末の館林及び周辺の村の様子や組織など社会構成を知る上で重要な資料である。

助郷…江戸時代、街道の宿駅で、常備の人馬で負担しきれない通行の時、補助的に人馬を負担する村、またはその夫役、制度のこと。
土塁…土で造った砦(とりで)のこと。

木造阿弥陀如来坐像

所在地

仲町14番2号常光寺

所有者・管理者

常光寺

指定年月日

令和4年(2020)9月9日

木造阿弥陀如来坐像
この阿弥陀如来坐像は常光寺の本尊として伝来した。木造漆箔仕上げで、像高は約八十八センチメートル。臨終を迎える人に阿弥陀如来が極楽浄土から迎えに来る時の印相・「来迎印(らいごういん)」を結んでいる。
その円満な顔立ち、均整の取れた体形、浅く整えられた衣文(えもん)表現などは、平安時代後期に活躍した京都の仏師・定朝(じょうちょう)により確立された彫刻様式(定朝様式)を示している。さらに、頭体の主要部を二つ以上の材から組み立てる「寄木造(よせぎづく)り」や、十二世紀中頃から行われた眼に水晶をはめ込む「玉眼(ぎょくがん)」の技法も用いられ、関東地方に伝わる定朝様式を示す仏像の中でも特に洗練された像である。
本像と近似する定朝様式を示す仏像の例として、邑楽郡千代田町の光恩寺に所在する木造阿弥陀三尊像(県指定重要文化財)の中尊像がある。光恩寺は、平安時代末に館林邑楽地域に成立した「佐貫荘」を支配した武士団・佐貫氏の氏寺といわれ、光恩寺の像の制作には佐貫氏が関与した可能性が高い。本像も同じ佐貫荘に伝来していることから、光恩寺の像と同様に佐貫氏との関係が想定される。本像は当時のこの地域に、佐貫氏によって京都と同レベルの仏教文化が受容されていたことを示唆しており、群馬県の歴史を知る上で大変貴重なものといえる。

県指定文化財・史跡

大谷休泊の墓

所在地

北成島町693

所有者・管理者

大谷休泊遺徳顕彰会

指定年月日

昭和28年(1953)8月25日

大谷休泊の墓
墓は高さ66センチメートル・幅34.5センチメートルの舟型の墓石で、3段の基壇石の上に乗っている。中央に「圓寂大谷休泊関月居士覚位」右側に「天正六戊寅天」左側に「八月二十九日」と刻まれている。墓域23.25平方メートルが指定。
大谷休泊は、大永元年(1521)生まれ、多野郡(たのぐん)平井(ひらい)(現藤岡市)城主上杉憲政(うえすぎのりまさ)の家臣であったと伝えられ、主家没落の後、館林城主長尾 顕長(ながおあきなが)の招きに応じて領内の成島に住み、灌(かん)がい・植林等の開発事業にあたったといわれる。その事業は、渡良瀬川および多々良沼より用水堀を掘り、邑楽館林の1,000ha程の水田を灌がいし、約63haの新田を開く一方、広漠たる館野ヶ原(たてのがはら)に金山(かなやま)(現太田市)より115万本の松苗を移植したと伝えられる。用水堀は上・下休泊堀と呼ばれて現在も田畑を潤し、植林地は大谷原として現在の松沼町周辺にそのおもかげをとどめている。
中世末の地方開発の経過や、社会構造等を知る上で貴重な遺跡である。

榊原康政の墓附同画像

所在地

楠町3692 善導寺

所有者・管理者

善導寺

指定年月日

昭和28年(1953)8月25日

榊原康政の墓附同画像
石柵で囲われた墓域に、榊原康政・康政の長子大須賀忠政(おおすがただまさ)・榊原二代康勝(やすかつ)・康勝の生母花房氏(周光院)・殉死者南直道の5基の墓石が並ぶ墓所である。
康政の墓は、向って左より2番目、高さ5.15mの宝篋印塔(ほうきょういんとう)である。墓石には、正面に「養林院殿上誉見向大禅定門」「慶長十一丙午季五月十四日」と刻まれ、向って右側面には、寛永15年(1638)の康政の33回忌に三代忠次が造立(ぞうりゅう)したことが記されている。
大名墓として、また群馬県の近世初頭、特に館林藩の成立過程を研究する上で欠くことのできないものとして、墓所全域の99.2平方メートルが指定されている。
昭和60年(1985)、館林駅前広場整備計画に伴い、本町二丁目3番36号より現在地へ移設復元した。なお移転に伴う調査で、康政・康勝・花房氏(周光院)の遺骨が確認されている。

県指定文化財・天然記念物

茂林寺沼及び低地湿原

所在地

堀工町1169 他

所有者・管理者

館林市

指定年月日

昭和35年(1960)3月24日

茂林寺沼及び低地湿原
館林・邑楽地方を代表する池沼と低地湿原。沼13,728平方メートル、湿原・草原42,244平方メートル の計55,972平方メートル が指定されている。
館林・邑楽地方は、北を渡良瀬川、南を利根川に挟まれた低湿地帯で、古来より数多くの池沼や谷地が存在してきた。しかしながら近年の開発等により現在では城沼・多々良沼・茂林寺沼・古城沼等に湿原が残っているにすぎない。
こうしたなかにあって、低地湿原の原型を比較的良く保っている茂林寺沼とその周辺の湿原には、コウホネをはじめとする水生植物、ノウルシ・カキツバタ・ノハナショウブ・サワギキョウ・ケナガボノシロワレモコウ・クサレダマ・エゾミソハギ等の湿原植物や草原植物、コナラ・エゴノキ等の森林の植物等が、一定の範囲の中で周囲の植物相と共に生育しており、全体がまとまって自然的単位を構成している地域である。
本市の良好な自然環境を考える上で欠くことのできない地域である。

茂林寺のラカンマキ

所在地

堀工町1570 茂林寺

所有者・管理者

茂林寺

指定年月日

平成7年(1995)3月24日

茂林寺のラカンマキ
ラカンマキは、イヌマキの変種とされるマキ科の植物で、原産地は中国である。一般的に高さ5m、葉の長さ5から8センチメートル、葉の幅は0.5センチメートル内外、雌雄異体で本株は雌株、開花期は5月である。葉幅がイヌマキより狭く短く、葉先は垂れず、庭木としてよく用いられている。
本堂前にあるこのラカンマキは、葉先がとがっているため、茂林寺創建の応永33年(1426)に魔よけとして植えたと伝えられる。
樹高14m、幹まわりは目通りで2.85m、枝は9mにもおよび、ラカンマキとしては巨木で、群馬県内でも数少ない名木といえる。樹齢はおよそ600年、樹勢や保存状態も良い。

市指定文化財

北条氏「虎印」制札

所在地

高根町401 龍興寺

所有者・管理者

龍興寺

指定年月日

昭和46年(1971)5月1日

北条氏「虎印」制札1北条氏「虎印」制札2
どちらも紙本で、本紙の大きさは、高根寺宛が縦30.2センチメートル・横48センチメートル、高根之郷宛が縦30.8センチメートル・横51.3センチメートルである。天正12年(1584)高根寺に、翌13年(1585)高根之郷に、武蔵国(むさしのくに)鉢形(はちがた)城主北条氏邦(ほうじょううじくに)(安房守(あわのかみ))を奉者として出された禁制である。
高根寺宛は、寺内や寺の付近での乱暴狼藉(ろうぜき)を禁じたもので、「高根寺」は現在の龍興寺と考えられる。また、高根郷宛は、離散した農民に帰村をうながすとともに、乱暴狼藉を禁じた内容である。どちらにも虎の形を配した「虎朱印」が押され、印文は「禄寿応穏」とある。
江戸時代直前のこの地域(城下町館林へと広がる)の世相を知る上で、また数少ない近世以前の文書として重要な文化財である。

生田萬の書跡

所在地

城町3-1 第一資料館

所有者・管理者

館林市

指定年月日

昭和48年(1973)4月1日

生田萬の書跡
紙本、本紙の大きさ縦29センチメートル・横78センチメートル。
文政10年(1827)生田萬が27歳の時、谷越町(現本町二丁目)の青梅天神(あおうめてんじん)に奉納したものである。
青梅天神の祭神菅原道真(すがわらのみちざね)が生田家の遠祖であることが、古代史の研究によって確認できたことを、万葉調の長歌と反歌(短歌12首)でつづっている。
生田萬は、享和元年(1801)松平越智(おち)家の家臣として館林に生まれ、20歳頃から国学の道に進み、24歳の時平田篤胤(ひらたあつたね)の門下となった。文政11年(1828)に脱藩し、天保7年(1836)越後柏崎(現新潟県柏崎市)に移住、翌8年「天保大飢饉(ききん)」で困窮した領民を救おうと乱を起こしたが失敗し自刃した。
この資料は、元館林藩士であった国学者・生田萬の自筆の書であり、萬の思想や動向を研究する手がかりとして貴重なものである。

銅鐘

所在地

羽附町1691 普済寺

所有者・管理者

普済寺

指定年月日

昭和50年(1975)3月6日

銅鐘
口径69センチメートル、胴の高さ99センチメートル、竜りゅう頭ず を含めて126センチメートルを測る。
駒(こま)の爪が大きく外に突出し、撞木座(しゅもくざ)の部分がふくらみ、上部の鍔(つば)の出が少なく、乳の配列は4乳4列、池の間の模様は巧妙である。
池の間のうち一間に「大日本国上野州邑楽郡佐貫荘羽継郷志柄村龍洞山普済禅寺遠近村里四衆氏以助力新奉鋳一鐘而為二世安楽寄進焉者也本願羽継郷住人小林太郎左衛門小林彦左衛門江田讃岐守藤原安信大工下野州天命住人横塚内膳藤原重次前永平当山九世月新雪叟代新添之慶安二己丑二月吉祥日」と刻まれ、羽継村志柄(はねつぐむらしがら)(現羽附町志柄)に住む小林太郎左衛門と小林彦左衛門が近郊の人々の助力を受け、現世と来世の安楽を願い、慶安2年(1649)に下野天明(しもつけてんみょう)(現栃木県佐野市)の大工(鋳物師(いもじ))である江田安信・横塚重次に鐘を造らせて寄進したことが分かる。
江戸時代初期の館林領内の様子を伝える貴重な資料である。

館林城下町絵図

所在地

千代田町4-29

所有者・管理者

個人

指定年月日

昭和52年(1977)8月30日

館林城下町絵図
延宝2年(1674)徳川綱吉在城当時に描かれた館林城下町の図面で、検断職(けんだんしょく)を務めた青山家の所有。市内に現存する城下町を描いた図面の中で最古のものである。
町を囲む塁濠(るいごう)、城下町の出入口である江戸口・佐野口・太田口・小泉口・加法師口の5ヶ所の門や牢屋敷、御用地、社寺、個人の屋敷などが詳細に記されるとともに、道幅、各町内の軒数も書かれており、当時の町の様子を知る上で貴重なものである。

検断職… 本来、保安・警察的行為及び刑事的事件等の検断をする職をさす言葉であるが、近世になって町の支配役人の職名になり、町奉行と町年寄の間にあって役所(藩方)と町人(町方)の間をとりもつ町役人であった。

松平武元書状(山椒)

所在地

城町3-1 第一資料館

所有者・管理者

館林市

指定年月日

昭和53年(1978)5月25日

松平武元書状(山椒)
紙本、本紙の大きさは縦34センチメートル・横48センチメートル。
将軍への献上品に対して老中が代理で返礼を行う「幕府老中返礼」形式の書状で、仙石越前守(せんごくえちぜんのかみ)が山椒一箱を将軍家へ献上したことに対し、老中である松平武元が発した返礼状である。
松平武元は、松平播磨守(まつだいらはりまのかみ)頼明(よりあき)の第3子で、享保13年(1728)館林藩主松平肥前守(まつだいらひぜんのかみ)武雅(たけまさ)の養子となり家督を継ぐ。一時奥州棚倉(おうしゅうたなぐら)(現福島県棚倉町)へ転封するが、延享3年(1746)9月に再び館林藩主となる。幕政においては元文4年(1739)に奏者番、延享3年5月に西の丸老中、翌4年には本丸老中となり、八代徳川吉宗、九代家重、十代家治の三代の将軍に仕えた。
書状の宛名の「仙石越前守」は但馬国出石(たじまのくにいずし)(現兵庫県豊岡市出石町)藩主仙石政辰(せんごくまさとき)で、武元と政辰の経歴から、延享3年から安永8年(1779)の間のものと推定される。
館林に残る数少ない藩主の書状として重要である。

ジョン・ウィルヘルム・ウェイマン著 植物彩色図

所在地

城町3-1 第一資料館

所有者・管理者

館林市

指定年月日

昭和53年(1978)5月25日

植物彩色図
ドイツの薬種業者ジョン・ウィルヘルム・ウェイマン(1683から1741)が書いた植物図集のオランダ語版で、1736年から1748年にかけてアムステルダムで出版された。革装幀のフォリオ版(縦40センチメートル・横25センチメートル)で、図版4冊と解説4冊の計8冊から成り、銅版刷手彩色の図版1,025枚が植物名のアルファベット順に配列されている。
ウェイマンの植物図集は1780年頃からオランダより日本に輸入され、その後の蘭学の普及に伴って様々な版のものが広まったという。当時の植物学者はこの書を通じて初めて西洋や亜熱帯の植物を知り、また美しい彩色図や解説は、日本のその後の植物図鑑に大きな影響を与えた。
本資料は最後の館林藩主・秋元家に伝わったもので、その入手経緯は不明であるが、江戸時代に輸入された洋書として、また秋元藩における蘭学の普及を知る上で貴重な文化財である。

榊原康政禁制

所在地

高根町401 龍興寺

所有者・管理者

龍興寺

指定年月日

昭和53年(1978)5月25日

榊原康政禁制
紙本、本紙の大きさは、縦30.3センチメートル・横47センチメートル。
龍興寺に伝わるもので、館林城主・榊原康政から龍興寺に下された禁制である。年号の記載はないが、文書の性格上、康政の館林入封間もない天正19年(1591)のものであろう。
龍興寺内における乱暴狼藉(ろうぜき)等を禁止したもので、榊原康政が城主となった頃のこの地域の世相を伝えている。

館林城絵馬

所在地

尾曳町10-1 尾曳稲荷神社

所有者・管理者

尾曳稲荷神社

指定年月日

昭和54年(1979)7月30日

館林城絵馬
明治6年(1873)連雀町(れんじゃくちょう)(現本町二丁目)の末広屋佐平ら13人の商人が、浮世絵師の北尾 重光(きたおしげみつ)(1814から1883)に描かせて尾曳稲荷神社に奉納したものである。
縦97センチメートル・横120センチメートルの桐製の扁額に、当時の館林城を中心に旧城下町を含む周辺一帯を極彩色で描いた、美麗なものである。
画面上端に「奉納」「尾引城之図」、右側に「明治六癸酉年九月吉日」「明治六癸酉仲秋日画渓斎北尾重光筆」、下端左には願主の名前が墨書されている。
江戸時代は城の防御のために内部を表わすことができず、また明治7年には館林城の大半が焼失していることから、この絵馬は館林城の構造や建物を奥行を持たせて相対的に表現した唯一のものと考えられ、貴重である。

明治戊辰戦争磐城進撃絵馬

所在地

尾曳町10-1 尾曳稲荷神社

所有者・管理者

尾曳稲荷神社

指定年月日

昭和54年(1979)7月30日

明治戊辰戦争磐城進撃絵馬
縦120センチメートル・横170センチメートルの上部屋根型の絵馬で、筆者は北尾 重光(きたおしげみつ)である。
上方に山並、その下に城と戦火に燃える町並、画面右側には兵士28人、その後方に数人の郷夫、中央には金色の幣束(へいそく)の下に3匹のキツネと柳を極彩色で描いている。
左下に「明治紀元歳次戊辰九月依朝命岩代国江進撃之図明治二己巳稔二月初午館林本営附再拝」、右下には「明治二己巳初春日画渓斎北尾重光筆」と墨書があり、戊辰戦争で岩代国(いわしろのくに)(現福島県会津地方)へ進撃した様子を描いたものである。上方の山並は磐梯山、安達太良の連峰、燃えているのは会津の若松城とその城下町であろう。
尾曳稲荷の加護による戦勝を感謝して奉納したものと思われ、当時の信仰をうかがい知るとともに、戊辰戦争の様子を知る歴史資料として貴重なものである。

幣束…紙や白布を細長く切って木にはさんだ神祭用具のこと。

千匹ムカデ絵馬

所在地

足次町494 赤城神社

所有者・管理者

赤城神社

指定年月日

昭和54年(1979)7月30日

千匹ムカデ絵馬
縦46.6センチメートル・横60.7センチメートルの上部屋根型の絵馬で、筆者・製作年代ともに不詳である。
薄赤色に彩色した小さな数多くのムカデを全面に、その上部に青で松を描き、中央上部には「奉納」の墨書がある。
伝説によれば、下野国日光二荒の神と上野国赤城の神が、中禅寺湖内にある上野島をめぐって争いになった時、二荒の神が蛇に、赤城の神がムカデとなって、戦場ヶ原で戦ったという。
こうしたことからムカデは赤城の神の眷属(けんぞく)(使者)として扱われるようになり、赤城神社の氏子はムカデを大切にするようになったと伝えられている。
この絵馬は、赤城神社の氏子が、ムカデの精霊にあやかって諸祈願をしたものと考えられる。庶民信仰の様子と赤城神社とムカデの関わりを示す資料として重要である。

ムカデと梅樹絵馬

所在地

足次町494 赤城神社

所有者・管理者

赤城神社

指定年月日

昭和54年(1979)7月30日

ムカデと梅樹絵馬
縦52センチメートル・横62センチメートルの上部屋根型の絵馬で、筆者は北尾 重光(きたおしげみつ)(1814から1883)である。
中央に大きく雄渾(ゆうこん)な筆致でムカデを、右側には梅樹が上部に向って枝を延ばす様子を極彩色で描いている。
左上部には「処願成就」、左中段に「天保十一歳庚子二月」、その下に「館林宮杉某」、右側下に「紅翠斎門人館林住人北尾重光筆」と墨書されている。天保11年(1840)2月、館林の宮杉氏が浮世絵師の北尾重光に描かせて、赤城神社に奉納した絵馬である。
ムカデは赤城の神の眷属(けんぞく)(使者)といわれ、梅は子授けや安産祈願によく描かれたものという。
ムカデと赤城神社の関わりや、当時の人々の信仰の様子を知る上で貴重な資料である。

松平武元書状(塩鮎)

所在地

城町3-1 第一資料館

所有者・管理者

館林市

指定年月日

昭和54年(1979)7月30日

松平武元書状(塩鮎)
紙本、本紙の大きさは縦38センチメートル・横53.7センチメートル。
「松平武元書状(山椒)」と同様、但馬国出石(たじまのくにいずし)(現兵庫県豊岡市出石町)藩主の仙石越前守(せんごくえちぜんのかみ)政辰(まさとき)が、塩鮎一桶を将軍家へ献上したことに対し、老中の松平武元が発した「幕府老中返礼」の書状である。延享3年(1746)から安永8年(1779)の書状と推定される。将軍家の消息なども添えられている。
山椒・塩鮎共に館林に残る数少ない藩主の書状として重要である。

大成経(先代旧事本紀)

所在地

城町3-1 第一資料館

所有者・管理者

館林市

指定年月日

昭和54年(1979)7月30日

大成経(先代旧事本紀)
袋綴じ和本。大きさは縦27.4センチメートル・横17.5センチメートル。
本文38冊と序伝・目録の計40冊から成り、延宝7年(1679)刊。館林の広済寺(こうさいじ) の僧・潮音(ちょうおん)が中心になってまとめたもので、表紙に「大成経」、見返しに「先代旧事本紀」とある。
「先代旧事本紀」は、編さんの時期や編者は不明であるが「古事記」「日本書紀」と並ぶわが国の史書のはしりとされ、特に神道書として重要な位置に置かれてきた。
「大成経」は「先代旧事本紀大成経」72巻本(正部38巻・副部34巻)として一般に知られ、「先代旧事本紀」
を基調に発展させ神道の経典的な性格を持たせたものである。しかし伊勢神宮より偽作として訴えられ、天和元年(1681)には幕府より絶版を命じられ、潮音は処罰された。
本市に残るのは72巻本のうち正部38巻で、最後の館林藩主・秋元家に伝わったものである。

明治戊辰戦争凱旋絵馬

所在地

尾曳町10-1 尾曳稲荷神社

所有者・管理者

尾曳稲荷神社

指定年月日

昭和54年(1979)7月30日

明治戊辰戦争凱旋絵馬
縦79センチメートル・横113センチメートルの上部屋根型の絵馬で、筆者は北尾 重光(きたおしげみつ)(1814から1883)である。
後方に尾曳稲荷神社と幣へい束そく、館林城の二の丸御殿が、その前に22人の兵隊が銃を担いだ姿で2列横隊に並び、左に隊長と思われる人物と鼓士1人が極彩色で描かれ、明治戊辰戦争に従軍した館林隊の凱旋の様子を伝えている。
左下に「明治元年戊辰討会凱旋而奉之隊長土屋勝蔵」以下22人の名前、右下には「明治二己巳仲春日画渓斎北尾重光筆」の墨書がある。会津での戦勝を報謝し凱旋を記念して奉納したものであろう。
磐城進撃絵馬とともに、当時の信仰や戊辰戦争の様子を伝える歴史資料として貴重な絵馬である。

常光寺の格天井絵画

所在地

仲町14-2 常光寺

所有者・管理者

常光寺

指定年月日

昭和62年(1987)8月7日

常光寺の格天井絵画
常光寺本堂の内陣・外げ 陣じんの格天井に描かれた花・鳥・獣・魚等の極彩色の144枚の絵画。筆者は館林生まれの南画家(かんがか)・小室翠雲(こむろすいうん)(1874から1945)である。
翠雲は明治22年(1889)に足利の田崎草雲に師事して南画を学び、のちに上京して文展審査員、帝国美術院会員、帝室技芸員を務めた。
内陣の天井画は72枚の花の絵に「明治三十有二年」「翠雲(落款)」の墨書がある。
外陣の天井画は濃紺の丸縁の中に花・鳥・獣・魚等72枚が描かれ、「庚子夏翠雲生(落款)」の墨書から明治33年(庚子)の作とわかる。
天井画制作を依頼したのは、常光寺の檀家で翠雲と交流の深かった館林の俳人・荒井閑窓(あらいかんそう)(1852から1925)であった。まだ20代の翠雲が2年の歳月をかけて描いたこの格天井絵画は、規模も壮大で美術的価値が高く、本市に残る翠雲の代表作といえるものである。
平成13年(2001)からの本堂大改修の際に外陣の格子及び丸縁を補修し、当時の壮麗さを取り戻した。

秋元泰朝所用具足(卯花糸威金箔伊予胴具足)

所在地

尾曳町10-1 尾曳稲荷神社

所有者・管理者

尾曳稲荷神社

指定年月日

平成8年(1996)3月22日

秋元泰朝所用具足
館林藩最後の城主・秋元家に伝来したもの。兜かぶとの吹返し部分に秋元家紋(源氏車紋)が施され、二代秋元泰朝(あきもとやすとも)(総社(そうじゃ)・谷村(やむら)藩主)所用で、大坂夏の陣で着用したと伝わる。
胴は金箔小札(きんぱくこざね)を持つ桶側胴(おかがわどう)で、胴の背と腹に漆塗の日輪、その上の腹部に「八幡大菩薩」、背部に「南無阿弥陀仏」の銀文字が施されている。
弘化2年(1845)の秋元家の館林入封後は、館林城三の丸千貫門(せんがんもん)楼上に安置されていたという。明治の廃藩以後は、旧藩士たちによって瓜内稲荷神社(とうないいなりじんじゃ)の御神体としてまつられたが、後年瓜内稲荷神社が尾曳稲荷神社に合祀されるに伴い、尾曳稲荷神社に奉納された。
館林に残る数少ない館林藩主ゆかりの甲冑(かっちゅう)で、戦国時代から江戸時代初期にかけての特色を示すものとして貴重である。

小札(こざね)…鉄や練皮で作った鎧よろいの材料の小板のこと。
桶側胴(おけがわどう)…鎧の胴の一つ。鉄板はぎ合わせの胴で、形は桶の側の板に似ている。

不動明王図(教王院旧蔵)

所在地

城町3-1 第一資料館

所有者・管理者

館林市

指定年月日

平成8年(1996)3月22日

不動明王図
絹本著色、本紙の大きさは、縦148.7センチメートル・横65.5センチメートル。
市内加法師町の教王院の什宝(じゅうほう)として伝来した、本尊の不動明王を描いた仏画である。中央に不動明王、その下に不動明王の眷属(けんぞく)である八大童子のうちの2体が配され、中央の不動明王は右手に宝剣、左手に羂策(けんさく)を持っている。
不動明王は五大明王の一つで、大日如来が一切の悪を降ろすために忿怒(ふんぬ)相に化身し、火炎で汚れを焚た き浄め衆生を守る仏とされる。
室町時代に描かれた仏画で、不動明王が岩座上に左足を投げ出し両手を右膝上に構えるなど、構図上で作者の創意が見られ、伝統的技法とは別の特色が顕著に表れている。
館林城主から拝領したともいわれ、館林市内ならびに群馬県内において中世の仏画としては秀逸で貴重なものである。

羂策(けんさく)… 不動明王や不空羂策観音などが持つ道具で、衆生を救うことを意味する。本来は鳥獣を捕るわな。

館林城跡出土墓石群

所在地

尾曳町4-1 県立つつじが岡第二公園

所有者・管理者

館林市

指定年月日

平成9年(1997)2月24日

館林城跡出土墓石群
館林城本丸跡及び三の丸跡から出土した墓石群で、五 輪塔(ごりんとう)・宝篋印塔(ほうきょういんとう)の一部
である。
その形態から中世に製作されたものであるが、一部の地輪に室町時代の年号を伝えるものがあるという。
また、上段向かって右から5基めの五輪塔の地輪に「良慶」「道慶」の銘が読めたといわれるが、現在では判読できない。
城跡から出土した墓石群であること、形態が築城年代より旧式であること、「良慶」「道慶」の銘等から、中世の館林・邑楽地方の領主であった佐貫(さぬき)氏に関わる墓石群とも考えられている。
昭和48年(1973)、現在地に集められ墓域として整備された。

宝篋印塔(ほうきょういんとう)… 「宝篋印陀羅尼(だらに)」という経典を納めた供養塔のことで、後には供養塔・墓碑塔

旧館林藩士住宅

所在地

大手町5-10

所有者・管理者

館林市

指定年月日

平成11年(1999)10月18日

旧館林藩士住宅
旧館林城の侍町の一つである「外伴木(そとばんき) 」(現尾曳町)に現存した館林藩の中級武士の住宅である。
木造茅葺(かやぶ)き平屋建で、部屋を横一列に配置する武家住宅特有の間取りが特徴であり、大きさは間口8間半、奥行4間半、建坪は28坪ある。棟札が見つからなかったため建築年代は明確ではないが、柱間の長さや間取り、柱配りなどから江戸時代後期のものと考えられている。
群馬県内に残る数少ない武士の住宅で、江戸時代の建築様式や館林藩士の暮らしの様子を伝える貴重な文化財である。
傷みが激しくなるとともに、現地での保存が難しくなったことから、平成12年(2000)に館林市に寄贈され、平成12年度から13年度にかけて現在地に移築し、復元を行った。

上毛館林城沼所産水草図

所在地

城町3-1 第一資料館

所有者・管理者

館林市

指定年月日

平成13年(2001)3月26日

上毛館林場沼所産水草図
紙本、軸装で、本紙の大きさは縦30センチメートル・横235センチメートル。
弘化2年(1845)当時、城沼に産していた12種類の水草を描いた図譜である。描かれているのは、1オモダカ、2オニバス、3フトイ、4ハス、5ヒルムシロ、6ミズヒキモ、7アサザ、8ガガブタ、9ヒシ、10ヒメビシ、11ジュンサイ、12タヌキモのほか、魚と蛙。
左端に見える「雲瑞(うんずい)」が作者と推定されるが、どのような人物かは明らかになっていない。
植物名は正確で、図は精密に描かれており、館林市の城沼の植物の変遷を知る資料として貴重である。
また、全国的に見ても、年代・作者が明記され、かつ精密に描かれた江戸時代の水草図譜は希少である。

町検断の門

所在地

本町2-1748-1

所有者・管理者

個人

指定年月日

平成14年(2002)3月25日

町検断の門
江戸時代館林町の検断職を務めた、青山家の屋敷があった場所にある門で、木造桟瓦(さんがわら)葺ぶき、薬医 門(やくいもん)形式。両側に同じく木造桟瓦葺の両袖塀の一部が附き、旧青山家の屋敷門の一部であると考えられている。
館林町では、青山家と小寺家が検断職を世襲し、月番でその職を務めた。
城下町「館林」の歴史において、町方と藩方の様子を伝えるものとして重要である。

市指定文化財・重要有形民俗文化財

富士原の浅間塚及び初山関連資料

所在地

富士原町1127

所有者・管理者

富士嶽神社

指定年月日

令和元年(2019)10月23日

富士原の浅間塚及び初山関連資料
「富士原の浅間塚」は富士山を模した浅間塚(富士塚)である。山開きに当たる5月31日・6月1日には、乳児の額に朱印を押し健やかな成長を願う「初山」が、山仕舞いに当たる9月1日には「火祭」が行われるが、これらは江戸期から館林周辺に根付いた富士山信仰に基づく行事と推定される。
また、塚の周辺には江戸初期の手水石、江戸後期の石碑や灯篭、近隣の村から寄附を集めて造られた青銅製の鳥居など多くの文化財が残っていることから、この塚が江戸時代前期から館林周辺の富士山信仰の拠点であり、富士山の信仰を根底にしながら、「初山」等の行事が今日まで受け継がれたと考えられる。
「富士原の浅間塚」とその周辺に所在する富士浅間信仰や富士講関連の有形・無形の文化財は、館林市や近隣で行われている「初山」行事のほか、この地域の富士浅間信仰、富士講を考える上で大変貴重であるため、重要有形民俗文化財「富士原の浅間塚及び初山関連資料」として一括指定した。

市指定文化財・重要無形民俗文化財

大島岡里神代神楽(太々神楽)

所在地

大島町

所有者・管理者

敬神講

指定年月日

昭和56年(1981)3月6日

大島岡里神代神楽(太々神楽)
江戸時代に渡良瀬川対岸の飯田(いいだ)(現栃木県佐野市)より伝承したといわれる。当初は神主が奉納していたが、明治初年里人に受け継がれ、定着したものである。戸ヶ崎流(とがさきりゅう)と称する。
構成は、日本神話を題材とした式舞(しきまい)と、庶民の生活の中から生まれた興舞(きょうまい)から成る。
比較的古式な格調高い形式を保っており、江戸神楽の流れをくむものと考えられている。
村人の日常生活と深く係わりながら存在してきた貴重な民俗芸能である。4月15日に近い日曜日に大島神社の例大祭で奉納される。

[演目]
式舞… 幣舞式者(へいまいしきしゃ)・翁(おきな)・児屋根(こやね)・太玉(ふとだま)・鈿女(うずめ) ・
戸隠(とがくし)・天狗(てんぐ)
 興舞…金山・恵比須・大黒・狐・稲荷・山神

上三林のささら

所在地

上三林町

所有者・管理者

上三林ささら保存会

指定年月日

平成5年(1993)7月16日

上三林のささら
江戸時代中期、武州忍(おし)(現埼玉県行田市)の下中条(しもちゅうじょう)より伝えられたという。その年の五穀豊穣に感謝し疫病神を追い払う祭事のため、かつては豊作の年のみに雷電神社の祭日(旧暦8月15日)に奉納された。
花棒(はなぼう)、棒方(ぼうかた)、獅子(しし)、笛方(ふえかた)などが行列を整えて雷電神社に集合し、棒の仕合(しあい)や獅子舞を奉納する。その後、再び行列を整えて地区内の八坂神社や十九夜堂などを巡行し、最後に雷光寺で奉納する。
棒と獅子舞で構成され、棒は花棒っ子と呼ばれる幼児や、子供と若衆による21演目の棒や太刀の仕合が行われ、その後「一頭一人立三匹獅子舞(いっとうひとりだちさんびきじしまい)」による「雌獅子(めじし)かくし」等の舞が子供、若衆の順に行われる。
ささらの原形をよく保ち、地域的な特色が顕著に表れた貴重な民俗芸能の一つである。

市指定文化財・史跡

田山花袋旧居及び旧居跡附建家売渡証一札

所在地

城町2-3(旧居) 城町678-2(旧居跡) 城町1-3(建家売渡証)

所有者・管理者

館林市

指定年月日

昭和46年(1971)5月1日

田山花袋旧居及び旧居跡附建家売渡証一札
「田山花袋旧居」は、日本の自然主義文学を確立した作家・田山花袋(1871から1930)が、7歳から14歳までのおよそ8年間暮らした家である。木造茅かや葺ぶき平屋建22.5坪(74.25平方メートル)の建物で、玄関の土間に続いて3畳間、その奥に4畳半の板の間と3畳の土間の台所、玄関左手に8畳が2間、玄関右手に4畳間と、合わせて5つの部屋がある。江戸時代は武士の住宅であった。
花袋は、城沼北岸の外伴木(そとばんき)(現尾曳町)に旧館林藩士の子として生まれた。明治8年(1875)に一時上京したが、父の死により帰郷した。明治12年(1879)4月に裏宿(うらじゅく)(現城町)にあったこの建物(田山花袋旧居)に移り、明治19年(1886)7月に一家で上京するまで、祖父母や母、姉、弟と生活した。
花袋の作品にはふるさと館林を題材にしたものが多くあるが、この家については、小説『ふる郷』や『時は過ぎゆく』、随筆「幼なき頃のスケッチ」などに描かれている。
昭和56年(1981)の館林市第二資料館の開館に伴い、「田山花袋旧居」の建物は第二資料館に解体移築された。跡地は、花袋が少年時代を過ごした地として、また「城下町館林」に残る武家屋敷の一つ(遺跡)として重要であるため、「田山花袋旧居跡」として整備され、保存・活用が図られている。
「建家売渡証」は、明治19年7月に花袋一家が上京する際、親戚の程原要三郎に家を売却したことを示す資料で、平成16年(2004)4月に附件として追加指定された。

生田萬父祖の墓

所在地

本町2-4-11 大道寺

所有者・管理者

大道寺

指定年月日

昭和48年(1973)4月1日

生田萬父祖の墓
代々松平(越智(おち))氏に仕えた生田家の墓所で、館林生まれの国学者・生田萬の曽祖父正宴とその妻、祖父正秘とその妻、父信勝、実母、信勝の次女の5基の墓石が並んでいる。
墓石にはそれぞれ「義峰院生田君想厳院鈴木氏之墓」「善立院生田君普明院黒沢氏之墓」「生田寿叟之墓」「春迎院誓誉接引大姉」「爽容童女」と刻まれている。
館林藩士であった萬は文政11年(1828)に藩政改革に関わる意見書を提出して藩を追われ、天保8年(1837)に越えち後ご 柏かしわ崎ざきで乱を起こした(「生田萬の書跡」参照)。
この墓所は、館林市内に残る国学者・生田萬に係わる数少ない遺跡である。

生祠秋元宮

所在地

赤生田本町1510-1 永明寺

所有者・管理者

個人

指定年月日

昭和48年(1973)4月1日

生祠秋元宮
石造の小祠で唐破風造(からはふづくり)。中央に「秋元宮」、右側面に「安政四年十月四日」、左側面に「赤生田村」と刻まれている。
赤生田(あこうだ)村は、灌(かん)がいや排水の便が悪いところで、毎年のように水害・干害による不作に苦しめられ、井上河内守(いのうえかわちのかみ)正春(まさはる)の藩主当時には、豊凶に関係なく重い年貢の取り立てを強いられたという。
秋元志朝(ゆきとも)が藩主になると、村民の困窮の様子や田畑の実状を調査し、収穫量や地味に応じた租入額を定めた。また安政3年(1856)の大水の時、秋元氏は握り飯や味噌などを積んだ救助船を出し、村民の救済を行ったと伝えられる。
翌4年に建立された秋元宮は、赤生田村民が志朝への感謝の意をこめ、生き神としてまつったものであり、村民と領主との関係を示すほか、低湿地帯の郷土を知る資料として欠くことができない遺跡である。
平成6年(1994)度、赤生田本町2661番地より永明寺境内へ移設した。

館林城跡

所在地

城町甲23-1 他

所有者・管理者

館林市

指定年月日

昭和48年(1973)4月1日

館林城跡
館林城は館林・邑楽地方の代表的地形である台地と低湿地を巧みに利用した平城で、尾曳城(おびきじょう)とも呼ばれる。
築城時期や築城者を明確にする記録はないが、戦国時代の築城と推定され、群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の中で、赤井氏、長尾氏、北条氏へと支配権が移った。また、近世には北関東の要所として榊原康政(さかきばらやすまさ)、徳川綱吉をはじめとする譜代(ふだい)・親藩(しんぱん)の居城となり、一時廃城となるが、宝永5年(1708)に松まつ平だいら清きよ武たけによって再築が始まった。
近世初代城主の榊原康政は、沼に突出した舌状台地(ぜつじょうだいち)を区画した本丸・二の丸・三の丸・南郭(みなみぐるわ)・八幡郭(はちまんぐるわ)を中心に、稲荷郭(いなりぐるわ)・外郭(そとくるわ)・武家屋敷等を内郭(うちぐるわ)とし、西側台地上に城下町を配し、全体を堀と土塁(どるい)で囲んだ。
現在、城の遺構は大半を失っているが、本丸跡・三の丸跡・第一中学校周辺などに一部土塁が残っている。
現在の館林市中心部の基礎を築いた城の遺構として重要である。

田中正造の墓および救現堂

所在地

下早川町1896 雲龍寺

所有者・管理者

田中正造翁奉賛会

指定年月日

昭和48年(1973)4月1日

田中正造の墓および救現堂
墓は、雲龍寺の山門を入って左手の一画にあり、高さ約3mの首部の細い特徴のある宝ほう塔とうで、5段の基壇石の上に東を向いて建っている。
田中正造は、天保12年(1841)下野国(しもつけのくに)安蘇郡(あそぐん)小中村(こなかむら)(現佐野市小中町)に生まれ、長じて栃木県会議員、衆議院議員となり、明治の富国強兵政策の中で起こった足尾鉱毒問題の解決に後年をささげた人である。大正2年(1913)没。
この墓は、正造の没後20年にあたる昭和8年(1933)に、渡良瀬川流域の人々の浄財によって建てられたものである。正造の遺骨は、現在雲龍寺をはじめ6か所に分骨されている。
また、墓に向って右手に建つ救現堂は、正造の7回忌にあたる大正8年(1919)に、館林の琴平神社にあった古堂を移転して正造の霊をまつったものである。救現堂の名は、死を前にした正造の「現在を救い給え」という言葉によるという。
日本の近代史の一端を語るとともに低湿地帯の郷土史を示す貴重な遺跡である。
平成5年(1993)度、墓石の解体修理を行った際に、基壇の内部に骨壺が確認された。

館林城主榊原忠次の母祥室院殿の墓および石灯籠

所在地

当郷町1975 善長寺

所有者・管理者

善長寺

指定年月日

昭和50年(1975)3月6日

館林城主榊原忠次の母祥室院殿の墓および石灯籠
高さ約5mの宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、宝珠下端より塔身にかけて「祖師西来意」、塔身に「瑞峰窓嘉」「元和九昭陽大淵歳南呂初九日」と刻まれている。
「瑞峰窓嘉」は榊原忠次の母の法名で、善長寺の過去帳にはこれに院殿の号を付して「祥室院殿瑞峰窓嘉大禅定尼」と記してある。
「昭陽」は十干(じっかん)の癸(みずのと)、「大淵」は十二支の亥い 、「南呂」は八月の意味であるから、没年月日は「元和九癸亥年(1623)八月九日」である。
「祥室院」は、下総国(しもうさのくに)関宿(せきやど)(現千葉県野田市関宿町)城主松平因幡守(まつだいらいなばのかみ)康元(やすもと)の娘で、榊原康政(さかきばらやすまさ)の長子遠江国(とおとうみのくに)横須賀(よこすか(現静岡県掛川市大須賀町)城主の大須賀忠政(おおすがただまさ)に嫁ぎ忠次を産んだ。後に忠次は榊原三代を継ぐ。
墓域は大谷石の石塀で囲われ、墓前には2基の石燈籠があり、向って左の石燈籠には寛永10年(1633)の刻銘がある。平成8年(1996)、墓石の解体修理を行った。

山王山古墳

所在地

当郷町1975-2 善長寺

所有者・管理者

善長寺

指定年月日

昭和52年(1977)8月30日

山王山古墳
城沼北岸に築かれた前方後円墳で、現状では、長さ47m・後円部径37m・高さ5mを測る。
周囲には、濠(ほり)がめぐっていたことが、昭和59年(1984)の調査で確認された。
主体部は横穴式石室と考えられるが、未調査である。
出土した円筒埴輪(えんとうはにわ)の破片などから6世紀後半(古墳時代後期)に築造されたと考えられる。
「上毛古墳総覧」(昭和13年刊行)には、館林町1基、郷谷村5基、赤羽村1基、三野谷村1基、多々良村59基の計67基の塚が記録されており、郷谷村1号墳がこれにあたる。
この古墳は、前方部と後円部の一部が削平されてはいるが、市内に現存する古墳のうちで、最も良く原形
をとどめている。
この地域の古代、特に古墳時代の社会環境を知る上で重要な遺跡である。

塚…土を高く盛って築いた墓、または土を高く盛って物の標(しるし)などにしたもの。

館林城本丸土塁および八幡宮

所在地

城町1-3 他

所有者・管理者

館林市

指定年月日

昭和62年(1987)8月7日

館林城本丸土塁および八幡宮
館林城本丸の南側にあった土塁の一部である。館林城の中心部は、城沼に突出した舌状台地を土塁と堀で区切って造られ、三の丸(現文化会館)から東へ、二の丸(現市役所、館林城ゆめひろば)、本丸(現向井千秋記念子ども科学館)、八幡郭(はちまんぐるわ)(旧秋元別邸)へと並び、また本丸の南には南郭(みなみぐるわ)(現館林城ゆめひろば)があった。
徳川綱吉藩主時代の絵図では、本丸の北西隅に三重櫓やぐら、北東隅に二重櫓が描かれている。また、松平(越智(おち))時代の「館林城地目録」では、本丸は東西136m・南北45mの長方形の郭で、長さ407m、高さ3.6mの土塁とその上に建てられた練ねり塀べいに囲まれ、北東隅に二重櫓があったと記されている。
八幡宮は、城の守護神として尾曳稲荷神社(おびきいなりじんじゃ)とともに築城時に勧請され、歴代城主に厚く崇拝された。現存する社殿は銅板葺(どうばんぶ)き、流造三間社(ながれづくりさんげんしゃ)、幅1.9m・奥行1.3mで、四周に縁が付く。尾曳稲荷神社の本殿と同型で、安永8年(1779)の建立であるが、明治時代後期の上毛モスリン工場建設の際、八幡郭から現在地に移されたと考えられている。
いずれも、館林城に関わる遺構や神社として貴重なものである。

浮世絵師北尾重光の墓

所在地

栄町1-8 覚応寺

所有者・管理者

覚応寺

指定年月日

昭和62年(1987)8月7日

浮世絵師北尾重光の墓
墓は、高さ77センチメートル・幅32センチメートル・厚さ15センチメートル内外で、高さ20センチメートルの台石に乗っている。竿石(さおいし)の表面に「釈現生居士明治十六年十一月十六日俗名北尾重光行年七十一才」「釈妙成信女明治六年酉十二月八日重光妻俗名久能行年六十一才」、裏面に「北尾重輝建之」と刻んである。重輝は重光の子である。
北尾重光は文化11年(1814)生まれの北尾派の浮世絵師。25,6歳の頃、江戸を追われ館林に移り住んだという。
重光の描いた絵馬は、館林をはじめ近隣の社寺に多く奉納されており、緻密で写実的、美麗な筆さばきである。
特に、「館林城絵馬」「明治戊辰戦争凱旋絵馬」「明治戊辰戦争磐城進撃絵馬」「ムカデと梅樹絵馬」は、市の重要文化財に指定されている。

千塚の判官塚

所在地

千塚町173-1

所有者・管理者

千塚区長

指定年月日

昭和62年(1987)8月7日

千塚の判官塚
農道脇にある高さ1m、大きさ6×11m程の小さな塚である。
塚上には1本の松が植えられ、「判官塚」の石塔と4基の庚申塔(こうしんとう)、4基の馬頭観音が建っている。
中近世に、館林から下野国(しもつけのくに)藤岡・佐野に通じる古街道に沿って造られた一里塚と考えられている。
伝説では、源九郎判官(みなもとのくろうはんがん)義経(よしつね)が兄頼朝(よりとも)に追われ奥州へ落ちる時に休んだ所と伝えられ、「判官塚」「判官松」という名前が起こったという。
千塚の地名も、この塚の所在から起こったものと考えられる。
中近世における交通や周辺地域との交流を示す遺跡として重要である。

日向義民地蔵

所在地

日向町甲1561-1 他

所有者・管理者

日向義民地蔵奉讃会

指定年月日

昭和62年(1987)8月7日

日向義民地蔵
国道122号沿いにある小さな堂宇に収められた等身大の石造製の地蔵。
徳川綱吉が館林藩主の頃、年貢の増徴や役人の横領に苦しむ農民を救うため、山田郡台之郷(だいのごう)村(現太田市台之郷町)の小沼庄左衛門ら18名の名主が直訴(じきそ)を行った。要求は容れられたが、名主らは延宝4年(1676)に日向刑場で処刑されたという。
処刑者の冥福(めいふく)を祈るため、元禄17年(1704)に60数か村の領民により地蔵が造られた。以後「義民地蔵」と呼ばれ、今も供養が行われている。
日向刑場跡でもあり、江戸時代の領主と領民の関わり、特に年貢取り立ての状況を知る上で欠くことのできない遺跡である。

市指定文化財・天然記念物

タテバヤシザサ自生地

所在地

成島町1561-1 他

所有者・管理者

館林市

指定年月日

昭和48年(1973)4月1日

タテバヤシザサ自生地
大正年間、植物学者牧野富太郎博士によって、「大谷休泊の墓」の西方に広がる山林中で初めて発見されたササである。
発見当時、「アズマザサ」とよく似ているが、葉に薄い軟毛があることや、葉の基部が心臓形か丸い鈍形をしていて、先端が短くとがっているなどの特徴から別種とされた。
大正15年(1926)、発見者牧野博士により「アオカムロザサ」と命名されたが、昭和3年(1928)同博士により「タタラザサ」、昭和9年(1934)中井猛之進博士により「タテバヤシザサ」と改名され、昭和51年(1976)鈴木貞雄博士により「アズマザサ」に統合され、現在に至っている。
現在、この地をはじめ、高根町から松沼町にかけてのアカマツの下に自生しており、本市を代表するササの一つである。

国登録有形文化財

分福酒造店舗

所在地

仲町3-15

所有者・管理者

分福酒造株式会社

指定年月日

平成10年(1998)2月12日

分福酒造店舗
旧城下の南西部に位置する酒造業を営んだ家の店舗である。
木造2階建、瓦葺(かわらぶ)き、建築面積61平方メートルで、1階を開放的にして2階を格子にするなど、町屋の特徴をよく備えている。
館林城下に現存する数少ない本格的な町屋の一つで、使用されている木材の質も高い。
保存状況が良く、往時の雰囲気をよく伝えている。現在「毛塚記念館」として保存活用が図られている。

正田醤油正田記念館

所在地

栄町3-1

所有者・管理者

正田醤油株式会社

指定年月日

平成16年(2004)3月4日

正田醤油正田記念館
正田醤油は、明治6年(1873)創業の醤油醸造会社で、前身は「米文(よねぶん)」と呼ばれた米穀商。
正田記念館は、創業時の店舗主屋で、主体部は桁行(けたゆき)8間・梁間(はりま)3間半程、切妻造(きりづまづくい)の木造2階建。南面と東面に半間の下屋を設け、北面に桁行2間半・梁間6間の平屋建を延ばすほか、西面は2階屋根を葺(ふ)き下ろして背面部を覆う。棟札から「大工棟梁栗原藤右衛門」が判明している。昭和62年(1987)に現在地に移築された。

正田醤油文庫蔵

所在地

栄町3-1

所有者・管理者

正田醤油株式会社

指定年月日

平成16年(2004)3月4日

正田醤油文庫蔵
文庫蔵は、記念館の北方に位置する土蔵造2階建の建物。桁行2間半・梁間2間程、切妻造、桟瓦葺(さんがわらぶ)きで、南妻面に観音開の戸口を設け、2階に観音開防火戸を建て込んだ窓を開ける。昭和62年、旧店舗の移築とともに、現在地に移築、記念館の収蔵庫として活用されている。

正田醤油六号蔵

所在地

栄町3-1

所有者・管理者

正田醤油株式会社

指定年月日

平成16年(2004)3月4日

正田醤油六号蔵・八号蔵
六号蔵は、敷地西寄りに南北棟で建つ醸造仕込蔵で、土蔵造平屋建、鉄板葺。規模は、桁行30間・梁間8間。
内部に柱を2列配した3廊式とし、主廊部の小屋組にはキングポストトラスを採り、他の醸造蔵と異なりこの蔵のみ入母屋造(いりもやづくり)の屋根を架ける。正田醤油拡張期を物語る遺構の一つである。
平成17年(2005)、工場の整備に伴って蔵の一部の建物が改修され、社屋として活用されている。

正田醤油七号蔵

所在地

栄町3-1

所有者・管理者

正田醤油株式会社

指定年月日

平成16年(2004)3月4日


七号蔵は、土蔵造平屋建仕込蔵で、桁行20間・梁間8間程、切妻造、波形スレート(もと桟瓦)葺。内部は六号蔵と同様のつくりとなるが、柱は2間間隔(六号蔵は4間を基本)に建てる。

正田醤油八号蔵

所在地

栄町3-1

所有者・管理者

正田醤油株式会社

指定年月日

平成16年(2004)3月4日


八号蔵は、六号蔵の西方に並び建つ木造平屋建の建物。切妻造、桟瓦葺で、桁行52間と長大。内部は六号蔵と同様で、小屋組もトラスであるが、六号蔵南妻面通り筋と南北両妻面のみ和小屋とする点に特色がある。長大な壁面と屋根が醸造場特有の景観を敷地西面に創っている。

正田醤油地内稲荷神社

所在地

栄町3-1

所有者・管理者

正田醤油株式会社

指定年月日

平成16年(2004)3月4日

正田醤油地内稲荷神社
稲荷神社は、桁行3間・梁間2間、切妻造、妻入の本殿の前方に、桁行3間・梁間2間、南北棟、切妻造、向拝付、平入の拝殿を配した社殿。八号蔵の南方に位置する。元の醸造場の敷地内に取り込まれているが、地元地区の稲荷として現在も近隣住民から親しまれている。

旧館林二業見番組合事務所

所在地

本町2丁目1704
本町2丁目16-2(住居表示)

所有者・管理者

館林市

指定年月日

平成28年(2016)2月25日

旧館林二業見番組合事務所
昭和13年(1938)建築の群馬県内有数の近代和風建築で、戦前の華やかな館林の町の様子を伝える建物である。
「二業」とは「組合甲種料理店業」と「芸妓置屋」の2業種を指し、料理組合と芸妓組合からなる「二業組合」が、置屋の取締り、芸妓の取次、玉代の精算などをこの見番事務所で行っていた。
館林では、明治後期の織物業の発展に伴って料理屋や芸妓屋が集まる花街が繁栄しはじめ、織物業界の旦那衆による接待や会合の場として賑わった。見番は、最初は明治42年(1909)に竪町(たつまち)(現仲町)に設置されたが、大正7年(1918)には谷越町(やごえちょう)(現本町二丁目)の青梅天神(あおうめてんじん)裏に、昭和13年には肴町(さかなちょう)(現在地)に再移転した。
見番ができた当時の肴町は、料理店のほか、芸妓置屋や三味線屋、髪結屋、かもじ屋など芸妓に関係する店が並んでいた。最盛期には館林には150人の芸妓がいたといわれる。
建物内部から発見された棟札から、昭和13年5月13日の上棟、当時の二業組合長で一柳閣(いちりゅうかく)の経営者である石島専吉が建築主と判明した。また、設計施工業者は株式会社小川組(現在の小川建設の前身)で、当時は館林に出張所があった。小川組は、太田、桐生、館林、大間々など東毛地区の銀行をはじめとする多くの建築物を手掛けている。
建物は東西に長く、西側は入母屋(いりもや)屋根の2階建、東側は寄棟(よせむね)屋根の2階建である。正面には唐破風(からはふ)屋根の車寄せ、2階の両脇には切きり妻づま屋根の千鳥破風(ちどりはふ)があり、日本の伝統建築の要素を取り入れた、近代和風建築の特徴が表れている。内部には2階に36畳の大広間と、松羽目のある20畳ほどの芸妓の稽古用の舞台が備わっている。また、大広間の天井は折上格天井(おりあげごうてんじょう)で、瀟洒(しょうしゃ)なシャンデリアが掛けられている。
肴町は、近世には城下町館林における武家地と町人地の接点に位置し、近代以降は市街地の中で最も華やかな場所にあった。このような館林の近代化の一面を現代に伝える貴重な歴史的資源として、「国登録有形文化財」に登録された。

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教育委員会 文化振興課 文化財係
電話番号:0276-74-4111
窓口の場所:文化会館

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