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館林市第一資料館

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主な収蔵資料

更新日:2026年6月22日

館林の歴史文化に関する資料

  • 考古資料(市内出土遺物ほか)
  • 歴史資料(館林城絵図(江戸時代)、古文書類、旧藩士所有資料、行政文書ほか)
  • 民俗資料(内陸漁撈用具(多々良沼・近藤沼等):日向船、ハズアミ、ウナギカキ等44点ほか)
  • 文学資料(荒井閑窓作品ほか)
  • 芸術資料(小室翠雲作品、岸浪柳渓作品、岸浪百草居作品、藤牧義夫作品ほか)
  • 飯塚多右衛門コレクション:昭和初期収集の考古学資料4,808点
  • 秋元家(館林最後の藩主)コレクション
  • 田中正造関係資料
  • 写真資料、拓本資料ほか

県指定重要文化財

封内経界図誌(江戸時代)

全4冊、表紙に桐板を使った折本形式で、大きさは縦36.4センチメートル・横26センチメートル。
安政2年(1855)秋元志朝(あきもとゆきとも)が藩主の時の城付領内52ヶ村(邑楽郡43ヶ村、山田郡2ヶ村、新田郡1ヶ村、勢多郡6ヶ村)の村ごとの概況が絵地図と文章によって記されている。
絵図には方位が入り、家・道路・堀・沼・川・田畑・山林・並木等が色分けされている。また、村の概況の部分には、石高・田畑面積・年貢・家屋数・村役人・人口・寺社数・馬数のほか、助郷(すけごう)や出水時の対応、
城の堀ざらいや土塁(どるい)の草刈など、各村に割りあてられた義務が記録されている。
館林・邑楽地方がほぼ網羅されており、江戸時代末の館林及び周辺の村の様子や組織など社会構成を知る上で重要な資料である。

助郷…江戸時代、街道の宿駅で、常備の人馬で負担しきれない通行の時、補助的に人馬を負担する村、またはその夫役、制度のこと。
土塁…土で造った砦(とりで)のこと。

市指定重要文化財

教王院旧蔵不動明王図 (室町時代)

絹本著色、本紙の大きさは、縦148.7センチメートル・横65.5センチメートル。
市内加法師町の教王院の什宝(じゅうほう)として伝来した、本尊の不動明王を描いた仏画である。中央に不動明王、その下に不動明王の眷属(けんぞく)である八大童子のうちの2体が配され、中央の不動明王は右手に宝剣、左手に羂策(けんさく)を持っている。
不動明王は五大明王の一つで、大日如来が一切の悪を降ろすために忿怒(ふんぬ)相に化身し、火炎で汚れを焚た き浄め衆生を守る仏とされる。
室町時代に描かれた仏画で、不動明王が岩座上に左足を投げ出し両手を右膝上に構えるなど、構図上で作者の創意が見られ、伝統的技法とは別の特色が顕著に表れている。
館林城主から拝領したともいわれ、館林市内ならびに群馬県内において中世の仏画としては秀逸で貴重なものである。(『館林市の文化財』より)

松平武元書状(塩鮎)(江戸時代)

紙本、本紙の大きさは縦38センチメートル・横53.7センチメートル。
「松平武元書状(山椒)」と同様、但馬国出石(たじまのくにいずし)(現兵庫県豊岡市出石町)藩主の仙石越前守(せんごくえちぜんのかみ)政辰(まさとき)が、塩鮎一桶を将軍家へ献上したことに対し、老中の松平武元が発した「幕府老中返礼」の書状である。延享3年(1746)から安永8年(1779)の書状と推定される。将軍家の消息なども添えられている。
山椒・塩鮎共に館林に残る数少ない藩主の書状として重要である。

大成経 (江戸時代)

袋綴じ和本。大きさは縦27.4センチメートル・横17.5センチメートル。
本文38冊と序伝・目録の計40冊から成り、延宝7年(1679)刊。館林の広済寺(こうさいじ) の僧・潮音(ちょうおん)が中心になってまとめたもので、表紙に「大成経」、見返しに「先代旧事本紀」とある。
「先代旧事本紀」は、編さんの時期や編者は不明であるが「古事記」「日本書紀」と並ぶわが国の史書のはしりとされ、特に神道書として重要な位置に置かれてきた。
「大成経」は「先代旧事本紀大成経」72巻本(正部38巻・副部34巻)として一般に知られ、「先代旧事本紀」
を基調に発展させ神道の経典的な性格を持たせたものである。しかし伊勢神宮より偽作として訴えられ、天和元年(1681)には幕府より絶版を命じられ、潮音は処罰された。
本市に残るのは72巻本のうち正部38巻で、最後の館林藩主・秋元家に伝わったものである。(『館林市の文化財』より)

ジョン・ウィルヘルム・ウェイマン著 植物彩色図 (江戸時代)

ドイツの薬種業者ジョン・ウィルヘルム・ウェイマン(1683から1741)が書いた植物図集のオランダ語版で、1736年から1748年にかけてアムステルダムで出版された。革装幀のフォリオ版(縦40センチメートル・横25センチメートル)で、図版4冊と解説4冊の計8冊から成り、銅版刷手彩色の図版1,025枚が植物名のアルファベット順に配列されている。
ウェイマンの植物図集は1780年頃からオランダより日本に輸入され、その後の蘭学の普及に伴って様々な版のものが広まったという。当時の植物学者はこの書を通じて初めて西洋や亜熱帯の植物を知り、また美しい彩色図や解説は、日本のその後の植物図鑑に大きな影響を与えた。
本資料は最後の館林藩主・秋元家に伝わったもので、その入手経緯は不明であるが、江戸時代に輸入された洋書として、また秋元藩における蘭学の普及を知る上で貴重な文化財である。(『館林市の文化財』より)

生田萬の書跡 (江戸時代)

紙本、本紙の大きさ縦29センチメートル・横78センチメートル。
文政10年(1827)生田萬が27歳の時、谷越町(現本町二丁目)の青梅天神(あおうめてんじん)に奉納したものである。
青梅天神の祭神菅原道真(すがわらのみちざね)が生田家の遠祖であることが、古代史の研究によって確認できたことを、万葉調の長歌と反歌(短歌12首)でつづっている。
生田萬は、享和元年(1801)松平越智(おち)家の家臣として館林に生まれ、20歳頃から国学の道に進み、24歳の時平田篤胤(ひらたあつたね)の門下となった。文政11年(1828)に脱藩し、天保7年(1836)越後柏崎(現新潟県柏崎市)に移住、翌8年「天保大飢饉(ききん)」で困窮した領民を救おうと乱を起こしたが失敗し自刃した。
この資料は、元館林藩士であった国学者・生田萬の自筆の書であり、萬の思想や動向を研究する手がかりとして貴重なものである。(『館林市の文化財』より)

上毛館林城沼所産水草図(江戸時代)

紙本、軸装で、本紙の大きさは縦30センチメートル・横235センチメートル。
弘化2年(1845)当時、城沼に産していた12種類の水草を描いた図譜である。描かれているのは、1オモダカ、2オニバス、3フトイ、4ハス、5ヒルムシロ、6ミズヒキモ、7アサザ、8ガガブタ、9ヒシ、10ヒメビシ、11ジュンサイ、12タヌキモのほか、魚と蛙。
左端に見える「雲瑞(うんずい)」が作者と推定されるが、どのような人物かは明らかになっていない。
植物名は正確で、図は精密に描かれており、館林市の城沼の植物の変遷を知る資料として貴重である。
また、全国的に見ても、年代・作者が明記され、かつ精密に描かれた江戸時代の水草図譜は希少である。

小室翠雲画「邑楽公園躑躅岡之図」 (明治28年)

紙本、軸装で、本紙の大きさは縦30センチメートル・横235センチメートル。
弘化2年(1845)当時、城沼に産していた12種類の水草を描いた図譜である。描かれているのは、1オモダカ、2オニバス、3フトイ、4ハス、5ヒルムシロ、6ミズヒキモ、7アサザ、8ガガブタ、9ヒシ、10ヒメビシ、11ジュンサイ、12タヌキモのほか、魚と蛙。
左端に見える「雲瑞(うんずい)」が作者と推定されるが、どのような人物かは明らかになっていない。
植物名は正確で、図は精密に描かれており、館林市の城沼の植物の変遷を知る資料として貴重である。
また、全国的に見ても、年代・作者が明記され、かつ精密に描かれた江戸時代の水草図譜は希少である。(『館林市の文化財』より)

日本遺産「里沼」構成文化財

間堀遺跡出土遺物(縄文時代)

沼辺で生活した人びとの歴史を伝える。

封内経界図誌(江戸時代)

江戸時代の沼の形がひと目でわかる。(県指定、上記参照)

上毛館林城沼所産水草図(江戸時代)

今は消滅した城沼の植物を確認できる。(市指定、上記参照)

小室翠雲画「邑楽公園躑躅岡之図」 (明治28年)

明治時代の沼辺景観を確認できる。(市指定、上記参照)

沼の漁具と日向船(民俗資料)

館林市内の沼では追い込み漁、ハズ漁、ヤス漁などが行われ、さまざまな漁具が用いられた。沼によって舟の形も違う。

    • 収蔵資料展「自然を描いた芸術家たち」の画像の画像

      収蔵資料展「自然を描いた芸術家たち」

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      収蔵資料展「館林の遺跡」